くまーるブログ

あやしうこそものぐるほしけれ。

25年前の韓国

思えば25年前、職業としての日本語教師生活を始めたのが韓国でした。

大学の3年生のとき日本語教師になりたいと思いましたが、そこからだと単位が集められないことに気づき大学院に通ってなんとか日本語教師の単位を集めた私。
(まだ1990年代半ばには養成講座というものがほとんどなかったんです)

 

「よし、日本語を教えるぞ!」と意気揚々と就活を始めたものの、
当時は阪神・淡路大震災や、オウムの事件等の影響か、学習者が減っていた時期でして…💦
日本語学校に応募しても面接してもらえればいい方だったなぁ」という時期でした。

 

大学院時代にお世話になった先生に就職について相談したみたところ、韓国での就職を紹介してくれました。
当時は若いこともあり、「何事も経験しなくちゃ」と思い、即座に「行きます」と返事いたしました。

 

6月に面接に行きました。
(今みたいにZoomで面接という訳にもいかなかったので…)
そのとき、生まれて初めて韓国に行きました。

釜山から列車に乗り、洛東江(ナクトンガン)という川を見て「大きな川だな」と思ったこと以外はあまり記憶にありません。
面接も形ばかりで、既に内定していたものだったため、今後のビザの手続きや、正式な韓国入国時期についての説明等を受けていったん帰国しました。

 

そして、今からちょうど25年前の1997年8月23日、韓国に到着。

【ちょうど25年前の今日!】

 

カレンダーで調べてみたら土曜日でした。
なので恐らく25日の月曜日から勤務開始したのだろうと思います。

 

ちなみに、当時はまだ『みんなの日本語』がありませんでした。
技術研修生(今の技能実習生)向けに『新日本語の基礎』はありましたが…。

私がその職場で最初に使っていたのは『新文化日本語』でした。
あとは『モジュールで学ぶよくわかる日本語』と
そして、『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE』(SFJ)。

この中で私はSFJが一番好きでした。
場面やイラストで示されたものに対して「どうやって言えばいい?」というスタイルの教科書。
今でいう、『できる日本語』などにも通じるものがあると思います。

SFJ。今でも本棚に置いてあります】

 

あとは教室の学習者に合わせて適宜アレンジして、試行錯誤も重ねて授業を続けていきました…。

2000年の8月まで3年、滞在しました。
2000年の8月に退職したときに旅行をしたのですが、そのときのことはまた別のエントリーにて書きたいと思います。

 


さてさて。
韓国での生活について書いておこうと思います。

私、25年前の当時は韓国にそれほど興味があったわけではなく、
就職が決まった6月から韓国語の勉強を始めたのでした。
NHKのテレビやラジオのハングル講座をなんとなく聞いていたぐらいで、
1997年8月に韓国に来た当時は、韓国語は全く話せませんでした。
ハングルも怪しかったです(笑)

【この画像だけよそから拝借】

 

鶏or鶏肉を表す“닭”という看板を見て「下にハングルが2つあるって聞いてない~!」と焦るレベルでした💦

でもサバイバルは大好きなので、市場に紙の辞書片手に買い物しに行ったこともあったなぁ(笑)
出川さんじゃないけど、気持ちがあれば最終的には通じると思います(笑)(笑)

 

その後、「せっかく生活しているのだから」ということで我流ですが韓国語の勉強を始めました。

韓国人向けの日本語の初歩の本が私にとってのちょうどいい韓国語テキストでした。
それを片手に、時々学生を捕まえて「どうしてこうなるの?」と質問し続ける毎日でした。
あとはテレビとかラジオをとにかく聞きまくるっていうことをしていました。
すると、だんだんわかってくるんですよね。
聞いてわかる言葉が増えだすというかなんというか。

 

そして、25年前の来韓当時で印象的なことがありました。

それは、音楽です。
テレビやラジオ、はたまた繁華街や街角から流れてくる曲。

ことあるごとに同じ曲がかかり続けるのです。

 

それが、H.O.T.(エイチオーティー)という5人組アイドルの「幸福」という曲でした。

テレビを見ているとSMAPよりもかなりの熱狂的なファンによって支えられている感じがして、
なおかつ国民的なアイドルのような感じでした。

「幸福」という曲がどこかでほぼ毎日かかっていました。

 

【前までは中国語訳ついてなかったのに、今日見たら、字幕ついてました…💦 MV見てると当時はやりのヒップホップのダボダボの格好が時代を感じさせますが…】

 

私、この曲が無かったら、あんまり韓国の音楽に興味を持たなかったかもしれません。

もちろん、この曲の前から韓国の音楽でも知っているものはありました。

서태지와 아이들(SeoTaiji and Boys)の存在は、仲良しの在日の子がファンだったため知っていたのです。
(ちなみにメンバーの一人のヤン・ヒョンソクはYGを作った人)

K-POPは詳しくはないのですが、今のBTS、遡って東方神起、BIGBANGなど有名な人たちの源流をたどるとH.O.T.に絶対にたどり着くと思います。もちろんさらにはSeoTaiji and Boysにも行きつくのですが、K-POPをアイドル中心に添えたのはH.O.T.が最初ではないかなと思います。

 

話変わりますが、この当時はまだKTXはまだありません。
KTXというのは、高速鉄道のことです。新幹線といえばいいかな)

Wikipediaより】

 

私が住んでいたのは大邱(テグ)という街だったのですが、そこからソウルまでは最速の列車で3時間ちょっとかかっていました。
ソウルのほうが街としては楽しかったので、週末などによく出かけていました。
今思えば、スマホもない時代、よく3時間も列車におとなしく座れていたな、と思っています(笑)

今はKTXで1時間半ぐらいと半分で行けるようになりました。

1時間半ならもっと頻繁にソウルに行ってたかも。

 

【あ、この画像もよそから拝借…💦】

 

バスの移動もけっこうしていたな~。

水曜どうでしょう」で韓国のバスは有名になったと思いますが…(笑)

 

意外と快適だったんです、移動が。

そのために、バスを使って

「ビビンバを食べるだけために全州(チョンジュ)に行く!」とか

タッカルビを食べるだけのために春川(チュンチョン)に行く!」とか

今ならYouTubeの企画としても成り立ちそうなこともよくやっていました。

 

むむむ。

なんだかとりとめのない文章になってしまいました。

この辺でとめておきましょう。

 

以上、私が日本語教師生活を始めた、25年前の韓国についてでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

【最後にオマケで韓国時代の私! ただし冬。当時も食べることが大好きでした(笑)】