今から22年前の8月の話です。
1997年の8月から在籍していた韓国の職場を3年で退職し、
日本に帰ることにしました。
3年の勤務でしたが、退職金がいくらかいただけるとのことでした。
ちょうど海外旅行をするのにいい金額だったので、北米方面に旅行することにしました。
私が住んでいた大邱から飛行機でソウルの金浦空港に行き、そしてシカゴ経由でカナダのトロントへ。
(ちなみに仁川空港が開港するのは2001年3月)
トロントを拠点に1週間ほど滞在した後、再びシカゴに戻ってまいりました。
(トロントの話はまた機会を改めて)
シカゴのオヘア空港に降り立ってからシカゴ市内へ…行きませんでした(笑)
実はアメリカに来たのには別の目的地がありまして。
その目的地に訪れる話の前に、私の学生時代の話をさせてください。
大学1年のとき、英会話の授業がありました。
そのときの英会話の先生の授業が当時の私にとってはとても新鮮でした。
「軟式テニスのゴムボールを持ってきて、それをポイっと学生のほうに投げて、それを受け取った学生は何かを話さなければならない」とか、
「正月の『こま』とか日本的な道具を持ってきて“Describe!”って言って英語で説明させる」とか、
私にはビックリの連続でした(笑)
ビジターセッションもありました。
でも規模が違います。
大抵ゲストを呼ぶときは1人か2人なのですが、学生が20人に対して20人ゲストを呼んできたのです。
つまり1人につき1人ゲストがつくという・・・。
どうやら短期留学をしに来ていた外国人留学生の1クラス分がまるごと英会話の授業に「ゲスト」としてやってきたのですが、
いや~スゴいこと考えつくもんだ、と思っていました。
ちなみに、私が日本語教師になってから、この先生が英会話の授業でなさっていたアイデアはだいぶ使わせていただきました。
私が学生の当時はその先生が授業でしていたことのメモを取っていなかったのですが、あまりにも教え方が新鮮だったので記憶に残っていたようで、いざ自分が教えるときにアイデアが出てきたんです。
そしてある日、“Describe!”の関連の時間だったと思うのですが、チェスの話になりました。
多分、日本人になじみのないチェスについて英語で説明させることで英語力のアップを図る目的だったと思います。
でも私、チェスのルールを知っていたんです。
私の拙い英語力で、頑張ってみんなの前でチェスの話をしました。
そこからどうしてなのかはわかりませんが、英会話の先生自身がチェスに興味を持って、私に「今度時間があるときに私の研究室に来ないか? チェスをやろう」と誘ってきたのです。
数日後、その先生とチェスをして、私が勝ちました。
そのとき、先生は英語で「Thanks for playing chess...」みたいなことを英語で言っていたと思うのですが、言い方が穏やかなのに対して顔が真っ赤になっていて、若い当時の私でも「ああ、これ、悔しくて怒っているんだな」と思いました。
それからほぼ毎週金曜日の4限の終わった時間(確か午後4時半ごろ)の後に先生の研究室に行って、チェスをするということが続きました。
やっぱり、その先生悔しかったんです。日に日に腕を上げていって、ついには私を負かしてしまうところまで来ました。しかも、「あなたもstandard tactics(定石と言えばいい?)を身につけろ」とまで言ってくるようになりました。
なので私も頑張ってチェスの勉強して、毎週金曜日にその先生とチェスをするという生活でした(笑)
チェスの後、「ウチへ寄ってご飯食べていかないか?」と言われ、ずうずうしくもご飯食べて帰ってました。
英会話のアメリカ人の先生、日本人の奥さん、そして保育園と小学校の娘さん2人に日本人男子大学生が毎週金曜日の晩ごはんを一緒に食べるという、今考えたら何とも不思議な生活でした(笑)
娘さん2人も私にとてもなついてくれて、日本語でいっぱいお話をしました。物語の読み聞かせをした記憶も(笑)
でもその生活も、私が大学を卒業すると同時に終わりました。
その先生も任期が満了したのです。
ほぼ4年間、そういう深い付き合いをした割には連絡先を交換することもなく、あっさりとしたお別れでした。
でも、私の中では相当印象が深い先生だったので、忘れることはありませんでした。
先ほど書いたように、私が日本語教えるときにも相当参考にしたぐらいなのです。
ちなみに私が大学院に行っている間に、いくつか論文を読んだのですが、その中の1つが、その英語の先生による論文でした。
当時の大学院の教授が言うには「ああ、ニシクマ君の英会話の先生って、●●先生だったの? あの先生ね、第二言語習得研究をしてたんだよ。あと教授法も研究してたみたい」と。
「あー、なるほど」と思いました。教え方の新鮮さを感じていたのはそのためだったのだと。
あと、ときどきデータ取りみたいなことをしていたことも思い出しました。
そしてそんな私も、英会話の先生のように日本語の先生となり、韓国で日本語を教えました。その英会話の先生のことを忘れることなく。
それから3年が経ち、韓国の職場を離れる際に思いついた北米旅行。
「そうだ! あのときの英会話の先生に連絡を取ってみよう!」と思ったのでした。
幸い、珍しい名前の先生だったので検索で掛かるだろうと思っていました。
案の定、すぐ見つかりました。
イリノイ大学にて働いていることがわかりました。
すぐさまメールをしました。
「覚えていますか? 私、あなたのクラスで英語を勉強していたニシクマです………」という感じで。
そしたら、すぐに返事が来ました。
「もちろん覚えているよ! こっち来るのかい? じゃあ会おうよ!」
と、トントン拍子で話が進み、3泊ほどおうちに泊めてもらえることになりました。
ということで、オヘア空港からバスに乗り込み、イリノイ大学のあるアーバナという街まで行きました。
移動時間3時間。
ひたすらトウモロコシ畑が続く中をバスは走り続けるという、初めての経験をしました。
そして、アーバナに到着。
バスターミナルでその先生が出迎えてくれていました。
その時点で約6年ぶりの再会でした。
久しぶりの再会の後、バスターミナルから先生の家まで車に乗せていってもらいました。
そのときの恥ずかしいエピソードが、これです(笑)
昔、アメリカのイリノイのアーバナという街に行った時、現地を案内してくれたアメリカ人(日本語もわかる)が英語で「Forty thousand people live in...」と説明してくれました。「40万かぁ」と日本語で独り言を言ったら、そのアメリカ人がすかさず日本語で「4万ね」と指摘した時は恥ずかしかったです😳
— Kumar(西隈俊哉) (@route2490) 2022年7月18日
「1,000,000」のように3ケタで区切るのに慣れていないので、こういうミスを今でもしてしまいます(笑)
さて次の日、その先生がイリノイ大学を案内してくれました。
「イリノイ大学」と言いますが、正式には「イリノイ大学アーバナシャンペーン校」と言うそうで。
ちょうどイリノイ大学のキャンパスが「アーバナ」という街と「シャンペーン」という街にまたがっているのでこんな長い名前になっているのだそうです。
まずはその先生の職場を見せてもらいました。当時とは異なり、認知心理学の研究をなさっていました。
認知と言っても視覚・聴覚を機材を使って活用するもので、今のVRにつながるような研究だったと記憶しています。
確か、「方向感覚がなくなる部屋」というのに入れてもらったことがあるのを覚えています。
今思えばいくら働いている人の知り合いとはいえ、そんな施設にいきなり入れてもらえて色々体験させてもらっていいのかな~なんて思ったりもしました。
翌日も大学を見せてもらいました。とにかく広かったのを覚えています。なので「今日は自転車に乗って移動だ!」と言って、自転車を借りてきてくれて、自転車2台でキャンパスを回りました。
そのとき、忘れられない体験をしました。
アメリカと言えば、フットボールじゃないですか。
NFLだけでなく大学のフットボールも有名ですよね。
(Google mapより)
幸い、練習していなかったので敷地内に入ることができました。
しかも自転車のまま。
そして自転車を止めて、降りてからフィールドを間近で見たのですが、「私にはなかなかできない経験だろうな」と思ってちょっと緊張しながら見ていました。
そしたら、その先生が自転車のほうに戻って、自転車にまたがって
「行こう!」
て言うんです。
「はいはい、もう行くのね。そうだよね、アメリカ人にとっては大事な場所だからあまり滞在しないでおこうってことかね」
と思って私も急いで自転車にまたがったら、
“Go aross this field!”
みたいなことを言ったんです、確か。
そして自転車を漕ぎ出す。
2人して、自転車でフィールドを横切っちゃいました(笑)
多分、その先生の茶目っ気だと思いたいです。
急に「やってみたい」と思ったのかもしれません。
私は「相変わらずやることが新鮮だな」と思ったのでした。
見つからなくて、よかったです(笑)
見つかってたら、きっと怒られてたような・・・💦
あとは、その先生の家でパンケーキ作って焼いたり、ご飯作って食べたりしてました。
小学生と中学生になっていた娘さん2人も6年のブランクにもかかわらず私に相変わらず仲良くしてくれて、楽しい時間を過ごしました。
そして最終日、再びバスに乗ってシカゴのオヘア空港まで行き、ソウルの金浦空港まで飛びました。
確かこのフライトが13時間ぐらいかかるフライトで、私の人生の中で一番長いフライトだったと思います。
とにかく退屈でした(笑)
さらに飛行機を乗り継いで大邱まで行き、北米の旅は終わりました。
それから急いで引っ越しの荷物を日本に送り、数日後には韓国生活も終えて日本に完全帰国したのでした。
いや、その前に台湾に行ったんだった(笑)
台湾の話もまたいつか書きたいと思います・・・。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。