もう残りわずかの2023年・・・。
コロナ以前の生活にほぼ戻りました。
コロナが収束したと言えるのでしょう。
そんな中、多くの人に会って話す機会がありました。
コロナ禍の中ではなかなかできなかったことが当たり前のようにできるようになりました。
ありがたいことです。
そこで、いろいろな人に会って話したのですが、同業者の方との話題は、もっぱら
「日本語教育の適正かつ確実な実施を図るための日本語教育機関の認定等に関する法律」
(5月26日可決、成立)
でした。
上の法律名は長いので「日本語教育機関認定法」と呼んでおきます。
この法律により、日本語教育機関の一部が適正な教育機関として文部科学大臣によって認定され、認定された日本語教育機関には国家資格を持つ日本語教師が教壇に立つようになります。また国家資格を持つ日本語教師を養成するための機関も必要となります。
簡単に述べると、
●登録日本語教員(国家資格)
●認定日本語教育機関
●認定養成機関
の3つが、今年話題に上がりやすかったです。
そして実際、どんな話が出てきたかと言うと…。
【Aさん】
もう年齢的にも頑張れないから、日本語教師はやめる。
新しい試験や講習を受ける余裕・気力がない。
【Bさん】
私は、コロナを機に日本語教育から離れた。
待遇がよくないから戻る気になれない。
生活のためには今の仕事のほうがよい。
【Cさん】
教科書を変えるのは無理。
教え方を変えたり、テストを作り直したり、先生方への研修をしなくてはならない。
今でさえ授業とその準備、生活指導、進路指導、学生募集等で忙しいのに、そのような暇なんてない。
【Dさん】
情報収集のためにSNSを見ている。情報やアドバイスはありがたいけど、私がいる学校には当てはめにくい。当てはめようにも私は非常勤でそれを言いだすのすら難しい。言い出すことによって学校にいづらくなるのも嫌だし…。
【Eさん】
SNSを見てると、「働き方を変えればいい」とか「嫌ならその学校を辞めればいい」という意見を見る。でも、私のような地方住まいだと日本語学校(告示校)は1校しかなく、辞めることもできない。非常勤という立場もあって、言いづらい。
【Fさん】
Can-doを主体とした教え方、いいと思うんですが、評価ってどうやればいいんでしょうかね?
【Gさん】
「参照枠」ってよく言われていますが、あれは基準なんですか? スタンダードみたいなものなんですか?
【Hさん、Iさん、Jさん、Kさん…(多数の方)】
「日本語教師が国家資格化される」と聞きました。
そして最近SNSで見かけたのが「日本語教育能力検定試験に受かっても、登録日本語教員になれない。ひどい」というものでした。
ここまで見聞きしたことを一言で無理やりまとめると
理想と現実の乖離(※)
です。
※乖離(かいり)…「離れること」「離れているさま」
「理想」って言ってしまうと語弊があるのですが、なんていうのだろう、「現実と対立する何か」なんです。
現実に置かれている人と、そうじゃないところにいる人の温度差
または、
目の前の現実と、その先にある別の何かとの差
と言えばいいのでしょうか。
この1年でお会いしてお話をした方の中には、現職の日本語教師で、何年も続けている方がいました。
その方が言ったのは「この仕事は、楽しいんですよね」でした。
素直に嬉しいことばでした。
だからこそ、続けられているんだと思います。
ただ、現実としては授業準備やらその他業務に追われて…だと思います。
それでいて待遇がよくならない。
それに対する苦しさはあると思います。
曖昧な書き方をしますが、「声の大きい人」がいます。
この1年、声の小さい人or声なき人の声を聞いているうちに、
声の大きい人の声が遠いもの、さらに言えば、非現実的なものにさえ感じられるようになりました。
声の小さい人or声なき人自身も、声の大きい人のことを遠くにあるのもののように感じているそうです。
声の大きい人 と 声の小さい人or声なき人
という隔たりができている気がしました。
何とももったいないことです。
あとは、
知っている人 と 知らない人
言い換えれば
情報を持っている人 と 持っていない人
の差も感じました。
「日本語教師が国家資格化される」と思っている人、本当に多い気がします。
でも本当はそうじゃなくて、日本語教師の中に「登録日本語教員」という国家資格が新設されるということが浸透していないのです。しかも登録日本語教員の対象となるのは認定日本語教育機関。認定日本語教育機関は今のところ留学生が学ぶ日本語学校(現在の法務省告示校)が該当するので、それ以外の教育機関で働く方や、オンラインのPFなどを利用して日本語を教えようという方にとっては、従来の「420時間」とか「日本語教育能力検定試験」が活かせるのです。でもなぜか「日本語教育能力検定試験に合格しても登録日本語教員になるにはまた試験を受けなければならない」といった発言が出てきてしまうのです。
あと、今回の
●登録日本語教員(国家資格)
●認定日本語教育機関
●認定養成機関
の3つによって「日本語教育が大きく変わる」と思っている人もいます。
ここからは私見になりますが、私は、「多少は変わるけど大きくは変わらないと思う」という考えです。
例えば、認定日本語教育機関になるために、教育課程については「日本語教育の参照枠」を参照することが求められています。参照なんです。基準とは言ってもいいかもしれませんが、規準までは行かないと思いますし、標準(スタンダード)であるとも思えません。
教育課程の到達目標をCan-doで記述しなさいということが、ちょっと強めのお願いです。
しかも各校で独自のCan-doを設定してもよいことになっています。
「参照枠」なんだから触れ方、解釈の仕方はそれぞれだと思います。
そうなると、日本語学校も一企業なので、リスクを取らないほうに進みます。
社内で改革を求める声があり、それを踏まえることで会社の利益に結び付くのであれば改革を進めるでしょうが、利益に結び付かないとなると、改革の部分は少なくなるでしょう。
「大きくは変わらないと思う」と言えば、就労者の日本語教育も劇的には変わらないと思っています。
「技能実習制度及び特定技能制度の在り方に関する有識者会議」による最終報告が11月末に出ましたが、
あくまでも最終報告で、こちらは法律にもなっていない状態です。
まだ詰める箇所(例えば職種とか)が山ほどあるので、あと数年はかかると思います。
国会での議論の間に、元の姿に戻されてしまう可能性だってあります。
それを考えると、就労者向けの認定日本語教育機関の設置はまだかなり先のことだと思います。
それゆえ、現行の420時間などによる「日本語教師」だって有効ですし、「日本語教育能力検定試験合格」というのも十分にお仕事に必要なものになると思います。
こういった「情報の差」は埋めなければな、と思います。
日本語教育の業界の間でも、差があるのです。
そして差と言えば、先ほども挙げた「声の大きい人」と「声の小さい人or声なき人」の差。
後者の方の話に耳を傾けると、「忙しすぎて考える時間すらない」という気持ちを教えてくれました。
だからSNSでアウトプットするなんてもってのほか、なのだそうです。
中には「発言してみようかな」と思う人もいるのですが、ちょっとでも変な発言をすると「それは違う」と言われるのがこわい、という理由で発言しない人もいるみたいです。
私事ですみませんが、12月10日(日)にあった、登録日本語教員の試行試験、風邪で熱を出してしまったために参加できませんでした。
そうなると頼りなるのはSNSの意見なのですが、批判的な意見ばかり。
決めつけはよくないのですが、批判的な意見をする人の多くが「声の大きい人」だったと思います。
私はできればそうじゃない人、しかも、本来の受験資格であった「日本語教師になって3年未満の人」の意見が欲しかったのです。
でも、直接は聞けませんでした。
そこで、「DMでご意見をお寄せください」という投稿をしたところ、数名の方からご意見を頂戴しました。
すると、「声の大きい人」が指摘するのとは異なる内容が届きました。
実際、登録日本語教員の試行試験でもアンケートを取ったでしょうから、おそらく様々な意見が国に届けられたと思います。声の大きい人の指摘以外の指摘が届いていることを祈りたいものです。
声の大きい人…。
私は最近、そういった方々の発言を見ないようにしています。
情報や意見として有用だとは考えられなくなったからです。
声の大きい人、頻繁に日本語教育のことをつぶやける人って、ある意味理想的な環境にいるのだと思います。
労働環境も変えようと思えば変えられる環境
上司・経営者に物を言って、変わる環境
色々な学びの形を実践し考えられて、アレンジができる環境
なんだろうな、と思います。
そういう人から見たら、「変えられない環境」というのが不思議でしょうがないんでしょうね。
だから、
「何で変わらないの?」
「まだ、○○なの?」
みたいな発言をしがちなのだと思います。
でもそれでは、差は広がるばかりです。
いいにしろ悪いしろ、変えられないのにはそれなりの事情があるので、それを踏まえたほうがいいと思うのです。
なので言われた相手が厳しいと感じてしまうような発言をしないで、
「○○しましょう」
「○○がいいですよ」
というように暖かく、やさしい発言に変えたほうがいいと思います。
「指導する」とか、そういう上から目線(声の大きな人から見れば上から目線だとも思わないのかもしれませんが)はキツいのです。
声の大きい人が言っていることは、正しいんだけど、厳しいのです。
そして、声の小さい人or声なき人にとっては「私のいるところでは無理。簡単には変えられない。専任や主任や経営者に物を言える雰囲気でもない。」なんです。
こんな風に思って、より遠ざかってしまうんです。
それが垣間見えた1年でした。
私自身、「変える・変わる」には賛成です。
でも、急には変わらないと思います。
参照枠とかCan-doとか、そういったことが当たり前の世界が来るまでにはあと10年はかかると思います。
「○○しましょう」「○○がいいですよ」の方式でいったとしたもです。
人ってそう簡単には変わりません。
変わるための十分な余裕があるわけではないのです。
だから、ゆっくり、じわじわと広げていくことが大事なんじゃないかと思います。
長くなりましたが、以上です。
ワガママですが、上記記述に対する私への反論はお控えください。
私などのような者に反論するぐらいなら、国とか、経営者とか主任とか、言いに行ったほうがいい場所がいっぱいあります。
経営者に直接「あなたの考えでは日本語教育はよくならない」と言ってまわってください。
もしくは主任に「もっと参照枠を理解してカリキュラム作成してください」と言ってまわってください。
そして多くの日本語教師に言うのであれば、「変わりましょう」と“伝道”してください。
ただし水平的伝道でお願いします。
そして、このブログの内容を無断で引用するのも固くお断りいたします。
引用する場合はご面倒ですが、ご連絡ください。
その際には、ご所属やお名前を名乗っていただきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。